昨日の土曜日は仕事もなく、子どもの習い事の送り迎えのみだったので、送り迎えの合間に庭の手入れをした。
気がつくと、草がボウボウで・・・・・・

そんな中、今回は、いつの間にかどこからか種がとんできて、大きくなってしまった「さざんか」を抜くことにした。
実はこれ、4,5年放置していたもの。
最初のうちは「かわいいし、せっかく飛んできてここに芽吹いたのだから」と思って放置していた。
でも、どんどん大きくなって、周囲に迷惑をかけるほどになってしまっていた。
私はこういうところが「くせ」でもあるんだけど、「せっかく飛んできたんだから」とか、「こんなに大きくなったから」とかって、変に情けをかける傾向があって、結局それが自分の首をしめることになることがしばしば。
フラワーエッセンスで師匠の「雑草という草はない。」というお言葉に偏った反応を示し、「そうか、むやみに抜いちゃいけないんだ。」などと思っていたお馬鹿なワタシ。
でも、ここにきて「ふっ」と気づいた。
「これ」が自分のスペースを侵していて、これを見ることが居心地がよくないことだったら、ムリして残すことはないんじゃないか・・・・・と。
そして、相当苦労して、「さざんか」さんを引っこ抜いた。(ごめんね。もっと早いうちに抜けばヨカッタ。)
向き合わないで放っておくと、どんどん状況が大変なことになる・・・・・ということの象徴的な出来事だったかも。(汗)
不思議だったのは、抜く作業をしながら、なぜか、腰の深層部の硬いところが反応していたこと。
このさざんかが生えた時期といい、腰を痛めた時期といい、ちょうど「同じころ」だったかも。
そして、抜こうとしているのは、「さざんか」だけでなく、ワタシのこの「考え方のくせ」なのかも。
そんなことを思った。
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思えば、「里山」がすべての生き物にとって、居心地いい空間であるのは、人間の手が入っているからだ。
下草を刈り、日当たりを遮る木は切る。
そして、結果的にそのことが生きた森をつくることにつながる。
逆に自然のままにした森は、一部の木だけが繁殖し、ほかの木を死活させ、日もあたらないくら〜い空間になることもある。
そう思うと、ワタシが変に「自然のままがいいかな」と思ってやってきたことは、あんまり有効なことでもなく、手間が増える結果になっていたわけだ。
なによりも、芝生の上に、雑草がボウボウだと、それだけでがっかりする。
自分にとって何が必要で何がいらないものなのか。
いろんな人のアドバイスを素直に受け取ることも必要だけど、自分の頭やハートで考えることも大事だなぁと今は思う。
もっとも・・・・・・・数年の修業がなかったら、こういうことにも気づくことはなかったと思うけど。